お疲れ様です、今週も夜のてっぺんごきげんよう。
本日(きのうか!)、大阪ではオフ会が行われましたね!
どんな方々がご参加されたのかしら。例のごとく盛り上がったのかしら。
オフ会前の愉快なスタッフの面々は、masa(正)に珍道中だったようで。
楽しそすぎます。
【珍道中(往路)ブログまとめ】
(車中にて。マグネット欲しいです)
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(サービスエリアにて。)
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(観覧車に乗り換えて。ホラーなのかなんなのか)
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(琵琶湖にてお昼。)
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(カラオケに行くとは…!何歌ったの…!)
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(歌を歌いたいお年頃なのね?)
http://avance2017.com/post-11262
関東居残り組の一人は、まったりと地元ライフを満喫しております。
ですが、オフ会の成功と、「帰るまでがオフ会」と言えるよう参加者様とスタッフたちの無事の帰還を祈っておりますよ!
さてさて。
気持ちのいい気候が続きますね。
季節の歩みは早いもので、朝晩は肌寒い日もちらほら。
寒くなる前に、今の時期におすすめなことを。
それは・・・
「夜の散歩」。
とても心地いいんです。
夜さんぽ
個人的に、日中のお散歩ももちろんだけど、完全に日が沈んでからのお散歩が好きです。
犬の散歩も、夜になってから行きます。
だって、テキトーな格好でおもて出ても夜なら大丈夫ですもの。
紫外線なんて気にしなくても、メイクなんてしなくても、表情が死んでいても、夜なら暗いから問題ないですもの。
そういった、夜の「人のことなんて昼間ほどよく見えない」というところが好きです。
私から、他の人のことも。
他の人から、私のことも。
詳細には見えていない。それがとても気楽。
なので、夜にお散歩するときは、考え事をしたり、その時の空気に浸りながらぼーっと歩くことが多いです。
街頭やネオンの明るいところでは、行き交う人の顔がよく見えてしまうので「気楽」ってことは無いですが、街灯が少なく、生活音や環境音や自然の音しか主にしないような静かな場所なら、夜さんぽにはもってこい。
そういう場所では、すれ違う人がいるとしても、私はただの「(闇にうごめく)通行人」。私からしても、あちらを歩く人は、ただの「なんか歩いてる人」。
「面白い顔してるな~」とか、「テキトーな格好すぎやしないかい」とか、「髪ぼさぼさだな~」なんて、ただの通行人にはいちいち思いません。というか、見えません。なのでいっそ、互いに気にしない。
みんな、放っておいてくれる。私も、放っておいておける。
(さすがに不審っぽいものは避けますが)
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静かな場所では、「夜に浸る」感覚を持つことができます。
虫の音、電車の通る音、土の匂い、葉がこすれる風の気配、通り過ぎる車のライト。
周囲には、私にラベルを貼ったり評価したり何かをせかしたりはしない「ただそこにあるもの」があるだけ。
そういったものの中では、私はただの「私」でいられます。
そこに在るだけの、誰でもない私。
容姿や所属やスペックなんて、夜に浸れたなら関係ない。夜においては誰も何も気に留めないのだから。
誰も私の事を気に留めないならば、夜の中では、私の精神だけがそこに在るような気がしてきます。
これ、夢を見ている状態に近いかもしれません。
夢の中では、明るいうちのリアルの自身のステータスなんて忘れがちに、自分の脳の働きだけでそこにいます。
だから、奔放に奇想天外に世界が広がる。
昼間のリアルにおいては、体が枷と自己認識となって、そんなことは出来ません。
夜は、夢を見ている時の自身の状態とは異なります。
が、「リアルな肉体を持っていながらそのステータスを意識しなくても良い」という、「昼間」と「夢」の間のような状態にある気がします。
夢の中のように好き勝手は出来ないけれど、脳は昼間とは違う動きをしている。
外の世界というよりは、自身へ意識が向くような。もちろん、車の音や信号の色などの外界の情報は入ってきてはいるけど。
…その、ぼうっとしたような、疲れているような、集中しているような静かな「夜に浸る」感覚が好きです。
「私」の本性がしみ出しても、夜の空気に馴染んでいくような気がして。
視覚ばかりに頼らないで過ごす
人と話すにしても、夜、暗い中を歩きながらの方がその人のことがよく分かるような気がします。
昼間の明るい中では、顔や表情が良く見えすぎて、そちらに気を取られてしまう。
一方で、暗い中だと、声の調子や間、歩調や話の内容に集中できる。
話の内容だけでなく、そこに流れる疲れ、落ち着き、気まずさも感じ取れるような。
夜の、ついぼーっとしてしまうゆるさも、沈黙や間として共有出来たら、しゃべりすぎないでもその人に親近感が湧きます。
顔が見えない、見られない、そのことだけで、人の内面を感じ取りやすくなる。
ゆるくなって、つい内面を出しても、夜の暗さという場の中ではなんとなく許容される。なんとなく。
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曇天、雨の日、カーテンを閉め切った薄暗い部屋でも、同じように、「意識が内面に潜っていく」感覚があります。
そんな時は、よく眠れたり、自身に寄り添った夢を見たり、ゆっくりした状態になれます。
こんな薄暗さは、時に救いだったりしますよね。「あ、今日は堂々とゆっくりできる」って決められるので。
暗いところへ潜る
暗いところにいるのは、悪いことばかりじゃない。
「心が外側に解放される」というよりは、「内に潜っていく」感覚が必要なときもありますもの。
内に潜って、深く潜って、これ以上は潜れないほど潜って行って…
そのうち、底に足が付いたら…
そこは、「私が居ていい」と落ち着ける場所なような。
自分や人の本質ばかりが見えてくるし、目を背けたいようなカオスさも「暗さ」は内包しています。
けど、そのカオスさも含めて「まあいいか」と思えれば、自分にとっての安心できる場所が一つ増えるのじゃないかしら。
夜のお散歩でそこまで深くは行けないけど、浅くとも「潜る」感覚が心地よいので、つい外へ歩きに行ってしまいがちです。
「『夜に浸る』だの『内に潜る』だの、どんなもんぞ」という方は、一駅二駅分くらい、人通りの多くない所を歩いてみてください。歩き終わったとき、頭がスッキリしていますよ。
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