今週もお疲れ様です。夜のてっぺんごきげんよう。
冬季オリンピックが開幕しましたね。
まだあまり見てはいないですが、2016年のリオは予選から楽しかったなあ。
…正直なところ、冬のオリンピックってあまり追っていないんです。
前の開催地がソチだったのさえ思い出せなかったくらい…
でも、メダルの期待がかかっている競技はもちろん、スノーボードの競技も楽しみです。
スノボ、自分ではやらないけど見ている分には面白いですよね。ファンキーな選手も多いですし。
二月の楽しみはオリンピックですね!
さてさて、先週は話が逸れましたが、テーマはまた「恋だの愛だの」に戻ります。
今回は、
「愛ってこうじゃない?」っていう名言・格言
から考えてまいります。
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「愛」について、世間には色々な言い回しがありますよね。
ほんの一例を挙げてみると…
・愛は最高の奉仕だ。みじんも自分の満足を思ってはいけない。(太宰治)
・あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう。(ゲーテ)
・自分自身以上に愛するものがある時、人は本当に傷つくのだ。(映画「グッドウィルハンティング」より)
・愛とは、相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け入れることだ。(ディエゴ・ファブリ)
…
…愛に関する言葉って、本当に多いです。
そんな中から、「こ、これは!」と思えた言葉と数年前出会いました。
それは、
「愛は、愛する人の成長を祈り、見守ること。寄り添うこと。」
という内容の言葉でした。
正確ではないし、誰の言葉かもメモし忘れてしまいましたが…
ほかの「愛とは…」な言い回しと似たような文面でありながら、私にとっては目からウロコだったので、内容だけは覚えていたんですね。
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これまで、愛とは「見守ること」「ただありのままを受け入れること」といった言い回しは聞いたことが何回もあったのですが、
「もちろんそういう心を開ける関係って憧れるものだけど…でも、そのままの相手をいいこいいこするんじゃ、そのうち秩序なんて無くなるし、野放図よね。スラム化するよね。つまりは甘やかしになってしまうよね」
と、あまり腑に落ちませんでした。
でも、そこに「成長を祈り」という方向性が付与されると…
なんだか、ただ甘やかすだけじゃない、真にその人のことを想っているというのが表現されると感じました。
例えば…
恋愛における愛ではないですが、
親や先生から飛んでくる指導、「ドS!」と思ってしまうほどの叱咤ってありましたよね。
そういう言葉に対して、「うるせえ」ってその時は思うものです。
でも、親や先生は、
こちらが一人でちゃんと生きていけるよう、さらには他の人にも親切にいられるよう、自分の持っている良さを発揮できるよう、
手ほどきしてくれていたような気がします。
もちろん、こちらの存在や個性を否定しない範囲での指導や叱咤において。
ダメ出しばかりされているようで、実は突き放していない。
それは、「この子がうまく生きられますように」という願いがあるからだったのかもしれません。
恋愛においても、「愛」はその姿勢を変えないものなんじゃないでしょうか。
色々とままならないこともあるけども、それでも相手のことを思うこと。
相手が、つまづいても落ち込んでいても荒れていても、状況や心境をシェアし、静かに見守ること。
「この人が、清々しいと感じられるところまで無事に抜けられますように」「今よりさらにすてきな心でいられますように」ということを祈りながら。
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「成長を祈る」
って、「より優れた方向へたゆまず進んでいってほしい」
というニュアンスに読み取れますが、愛においては、そんな厳しいことを言っていないような気がします。
人は一人ひとり違うので…
一つの方向性を万人にあてはめては、ただ優劣をつけてしまうだけです。
なので、そうではなくて、
「その人なりに」
生きやすいように自己実現していくこと。
という方向で解釈したいです。
なので、
「成長を祈る」ことは、
そもそものその人の存在や個性を認め、それに沿って成長していってくれたら…という気持ち
なのではないかなあ、などと思います。
辛い時もあるに違いないけど、それを一つずつクリアして、どうか、いつか、(いつでも)心は輝いておくれ、
って。
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そういうことから考えると、恋愛でありがちな、
相手を自分の思うようにコントロールしたり、
自分にとって都合の悪い、相手のある部分を否定したり、
相手の都合や状況や心情を自分の都合のいいように解釈したり…
というのは、「愛」ではないですよね。
何かを「愛」と言うなら、あくまで、相手に「心は輝いて」ってどこかで祈っている…
そんな気持ちが無いとなあ、と思ってしまいます。
もちろん、相手の、こちらにとって都合の良くないことも知ったうえで。
(相手の事をよく知らず好意をぶつけても、自分にとっての「偶像」を好きなだけかもしれないので)
自分にとって都合がいいから「愛」があるというわけじゃない、
利用価値があるから「愛」があるんじゃない、
自分の不安を解消してくれるから「愛」なんじゃない。
そもそも、相手そのものを好きだから「愛」なんだもの。
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輝き輝きって言ってますが、
ウェイウェイしろってことでなくて、社会的に評価されろって期待でもなくて、
輝いている=その人が本当に望む自分自身になって(近づいて)(気付いて)、喜びを得ている状態
とここでは定義したいです。
心の内にあるものが、
躍動感あふれるものでも、はじけるようでも、その辺の空気に馴染んでしまうようなさりげないものでも、日が沈んだ後の家の明かりのようにささやかに灯るものであっても、
その人の本当の喜びならば、きっとそれは「輝き」です。心ではきらきらしているはずだから。
そんな輝きが、あの人の心にいつか(いつでも)ありますように。
そう祈るような気持ちでいることが、相手へ向ける「愛」なのかもしれない…
と、一つの文言から考え着いた今週です。
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