今週もお疲れ様です。夜のてっぺんごきげんよう。
三月でございます。
春っぽい気配は感じられても、まだまだ寒い日が多いですね。
夜は風があるし冷えるので、しっかりしたアウターは手放せません。日中の陽気に浮かれすぎないようにしないとですね。
こんな感じで春って意外と冷えるので、衣替えをするのは結局ゴールデンウィーク辺りになることが多いです。
みなさんは衣替えっていつしますか?
…
…そういえば。
衣替えだけじゃなく、こたつ仕舞うのもそれくらいかもしれない…
こたつは…せめて4月中に片付けましょうかね…
さすがに初夏にはもこもこしたのは似つかわしくないからね…
さてさて、今回もテーマは「恋やら愛やらについて」。
「恋」よりも「愛」について考えることが多めですが、特に今回は、「愛する対象」について考えます。
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「愛する対象」。
愛するもの。
愛するひと。
ってことが、たまに分からなくなりませんか。
「あれ?これを愛していたっけ。」って。
「んもう愛してる!」とか「私の愛するなんちゃら」って言う時の「愛」は、「すごい好き!」「大好き!」(強いlike)という意味での「love」という感覚、ということなんですけども、
そもそも、「すごい好き!」の「すごい」ってどれくらいだっけ。
って基準があやふやになってしまった時。
「どう思えたら『大好き』『愛してる』って言えるかな」という目安として、こんな感覚をひとつ思い返してみるのはどうでしょう。
それは、
「これ(この人)に出会えて、私の人生良かったなあ。」
という感覚。
私個人だと、
「ディズニーに出会えて良かった。」
(私の人生に鮮やかさと明るさをもたらしてくれた)
「無印良品に出会えて良かった。」
(私の人生においてこんなに普遍的なものを商品を通して表現してくれた企業はない。)
「東京事変やCamera Obscura(大好きなスコットランドのインディーズバンドです)に出会えてよかった。」
(私の人生において、音でもって心を乗せられて、心を解放もしてくれる手段を得られたなんて)
と思います。これらに思いを馳せるだけでじゅんじゅん(※)しちゃう♡
「きゅんきゅん」の程度を強くした語。
ときめきやいとおしさがだだ洩れているさま。
そしてもちろん、
「あの子(初恋の子)に出会えて良かった」
ともしみじみ思います。
これら「出会えて、私の人生良かったなあ」と思う人やものごとに共通することは、
「私の人生に豊かさを与えてくれた」ということだと感じています。
特に初恋の子についてですが、
その恋が実らなかったにもかかわらず、「初恋の子に出会えて良かった」と思うのは…
私に
①恋の強烈な感覚
②「こんな人がいるんだ!」という驚きと尊敬
を教えてくれたからです。
この二つのものを分かりやすく強烈に教えてくれた存在は、(今のところ)あの人だけです。
私は、あの子のおかげで恋の感情をよく知っている。
そして、あの子のような人が実在すると知っている。
すてきですごいと素直に思える人を知っている。
あの子のことを知っているだけでも、こんなに胸を張れるような誇らしさがあります。
逆に、「もしこういったことごとをあの子の存在を通して知らなかったら」と考えたら…
私の人生はなんとでも成り立っていたでしょうが、「生きるってこんなもんか」と人生に対して今よりは退屈していたかもしれないし、「マシな人間になりたい」というモチベーションはもっとずっと低かったかもしれません。
今思えば、初恋の子を一目見て恋の感情が芽生えたのも事実ですが、同時にとても嬉しかったんです。
「ああ、すてきな人はいた。そんな人に出会えるというイベントが私の人生にも起こったんだ」
って。
「そう感じることが出来た」というただそれだけのことで、私の人生はとうに救われていたんだと思います。
あの子と出会ってから、生きるって全然悪くないと思えたから。
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そして、大好きな人やものごとたちの「これから」をも楽しみにしています。
初恋のあの子にしても、ディズニーや無印にしても、「これから、どんなものを残していくんだろう」と先の事を考えるとわくわくしちゃう。
大好きな人や団体に「こうあってほしい」「こうじゃなきゃ○○じゃない!」というプレッシャーをかけているわけではなく、あくまで、「その人(たち)の選択はその人(たち)自身にとって信頼できる」と知っていることからのわくわくです。
もちろん、その人(たち)の選択は、必ずしも私を楽しませたり私のためになることではないかもしれません。
けど、「私」がどうした。
私なんて、ただ勝手にその人(物事)を気に入っているだけのいち存在です。
「私が報われる」ということじゃないんです。「その人(物事)にわくわくする」というのは。
その人(物事)がわくわくしているから、私にもそのわくわくが伝わるんです。
伝わるくらい、その存在や心をすでに敬愛しているから。
私は、大好きな人やものごとを通して、私だけのものではない「わくわく」を持っています。
「私」だけで完結していたら決して得られないわくわくを。
「大好き」と何かや誰かに思えたなら、心が広がる。
もうその「大好き」と思う心を自分が持っているだけで嬉しい。その感情が自分にとっては何より快くて気持ちいい。
空に向かって開けるような。
そんな「大好き」をコツコツと見つけていったら、「生きることは悪くない」…どころか、「生きてみて良かった」とすら思えるようになっていました。
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大好きと思える存在に出会えただけで、
そういう存在がいる(ある)と知ることができただけで、
嬉しい、楽しい。
私の生きていることに、「大好き」と思う感情がもたらされたことを、ただ感謝しています。
…このありがたくってしみじみ楽しい感覚を、「愛」と呼ぶのでもいいのかもしれない、という気がしてきました。
だとしたら、愛は、感じていて清々しくて嬉しいものなんだなあ。
「大好き」、「すごい好き」、「愛している」。
ってのは、「報われるか報われないか」、そんな短期的で表面的で自分の内で終始するだけの損得じゃないんでしょうね。
素直な「大好き」の気持ちは、きっとそんなきゅうくつなことじゃない。
自分で気付かなくても、いつの間にか「大好き」には出会えているものです。
その素直な心の広がりを、「自分の損得」というせっまい枠に押し込めようとしないで大丈夫だったんですね。
「大好き」と思える存在に出会えただけで、自分の人生良かった、という感覚があった。
ただその存在が嬉しかった。
「大好き」な感情はそのままに。
大好きな存在のすばらしさをただ味わって、ただ喜べばよかったんだなあ…
自分にとっての自慢や宝物みたいに。
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