AVANCE

〜ビアン人生も悪くないですよ〜

誰にも顧みられないさびしさ

お疲れ様です。今週も夜のてっぺんごきげんよう。

納涼の花火大会がどんどん開催される時期ですね。

みなさんの地域では花火は無事見えましたか?

 

納涼。
暦の上では夏が終わろうとしているのだなぁ。郊外では朝晩涼しくなり始める時期ですね。
日中は10月半ばくらいまで暑さはありますが、空気は徐々に軽くなっていくでしょうか。

 

 

 


 

 

さてさて、今回は、きっと誰にとっても懐かしいものを取り上げます。

こちら。

 

 

「かえるくんとがまくん」。

こちらの「ふたりはともだち」の中の一篇の「おてがみ」という話は、小学校一年生の国語の教科書の教材として収録されています。
なんでも、40年ほど教材として採用され続けているんですって。
ということは、割とどんな世代にも通じるものかな?

ちょっと内容を振り返ってみますね。

 

【 あらすじ 】

がまくんが玄関の前に座っています。
そこへかえるくんがやってきました。

「どうしたんだい、がまがえるくん。きみ かなしそうだね。」

がまくんは、今が一番一日のうちで悲しい時なんだ、と言います。
それは、手紙を待つ時間だから。

「だって、ぼく おてがみ もらったこと ないんだもの。」

がまくんは一度も手紙を貰ったことが無い、だから手紙を待っている時が悲しい、と話します。
二人は悲しい気分で玄関の前に腰かけています。

しばらくして、かえるくんは急いで家に帰ります。
紙と鉛筆を見つけ、紙に何か書きます。
そしてその紙を封筒に入れ、「がまがえるくんへ」と封筒に書きます。

かえるくんは、知り合いのかたつむりくんに、手紙をがまくんの家まで届けてくれるように頼みます。かたつむりくんは快く引き受けます。

かえるくんはがまくんの家へ戻ります。
がまくんはベッドでお昼寝をしています。かえるくんは、がまくんに諦めずに手紙を待つことを提案します。
しかし、がまくんは手紙を待つことには飽きたと言います。
かえるくんは窓から郵便受けを見ますが、かたつむりくんはまだやってきません。

「ひょってして だれかがきみに てがみを くれるかもしれないだろう。」
「ぼくに てがみを くれる 人なんて いるとは おもえないよ。」

かえるくんは窓の外をのぞきます。そして、今日は誰かが手紙をくれるかもしれない、と言いますが、がまくんは信用しません。
がまくんは、どうしてそんなに窓の外を見ているのかとかえるくんに訊きます。
かえるくんは、

「だって、いま ぼく てがみを まって いるんだもの。」

手紙は来ないよ、と言うがまくんに、きっと来る、と言うかえるくん。

「だって ぼくが きみに てがみ だしたんだもの。」

手紙になんて書いたのかを訊くがまくんに、かえるくんは手紙の内容を教えます。

しんあいなるがまがえるくん。
ぼくは きみが ぼくのしんゆうであることを うれしくおもっています。
きみのしんゆう かえる』

「ああ、」

「とても いい てがみだ。」

それから二人は玄関に出て幸せな気持ちで手紙を待っていました。

四日経って、かたつむりくんががまくんの家に着きました。

手紙を貰って、がまくんはとても喜びました。

(あらすじは、サイト「絵本大好き!」さんよりお借りしました。)

 

かえるくん、良い奴!
同時に、がまくんに対し「手紙が欲しいなら自分から手紙を出してもいいのよ?」という気持ちがよぎらないでもないですが、そこは世界観と作者の優しさ。教訓よりも、「心遣い」や「友情」をシンプルに伝えたかったんでしょうね。

 

…最近、やたらとこのエピソードのラストシーンの「イメージ」が思い出されまして。
一度思い出すと、まだ秋ではないのに心がしんみりモードになってしまう症候群だったんです。

 

この話のどこが「しんみり」かって?

それは、「寂しさ」。
ラストは丸く収まるし、一見「寂しさ」は主題ではないようですが…

 

 

多くの人が、がまくんのような「誰も自分に気を向けてくれない」寂しさを感じたことがあるのではないでしょうか

「自分なんて誰にも必要ないんじゃないか」
「自分は特に要らない人間なんじゃないか」
「このままずっと一人なんじゃないだろうか」

その寂しさは、人によっては大人になるほどひしひし迫りくるものかもしれません。
そして、大人になればなるほど、実際的な問題として(老後どうしようとか)切実になってきそうです嫌ァァァ

 

しかも、人と付き合いがあったとしても、表面的なだけではまだ寂しいんですよね。
大人になるほど「表面的」が日常になっていくから、寂しさも強くなるという面があるかもしれません。どこ行ったって社交辞令で溢れてますもの…。

だから、かえるくんのまっすぐな優しさに感動する。

 

ラストシーン、玄関先で二人並んでニコニコな光景でフェードアウトしていくんですが、実際この状況に置かれたら、大概の大人が泣く泣きそうになると思うんですよ。

 

お話ではがまくんの寂しさとかえるくんの行動を軽めに描いてはいますが、

・手紙を書いたよ、と伝えられて:
「えっ?・・・そ、そうなの?・・・あ、ありがとう・・・?(戸惑い)」(…なんだ?ドッキリか?でなければ何を企んでいる?金か?コネか?口止めか?貸しを作る気か?)

・手紙を待ちながら:
ニヤニヤしつつも気を遣わせてしまった申し訳なさと自分のかまってちゃんっぷりがちょっと嫌になる。情けなさを晒したにもかかわらずフォローしてくれたその気遣いで泣きそうになる。「手間がかかるし手紙なんて別にいいのに…」と突き放してしまいそうな照れがありつつ。

 

 

ってなりがちかと思うんです。実際は。
いやねえ。まず疑ってしまう癖がついているようです。
でも・・・

 

本当に、かえるくんの優しさががまくんを純粋に思いやるものだったなら…
がまくんな「自分」にもそんなことが起こったら…
かえるくんのようにそばにいてくれる人がいたら…

 

突っ伏して泣きたくなります。

 

大人だって、優しさや自分へ気を向けてくれることを、小さなころと変わらず切実に求めてますもの。

 


 

 

今回のかえるくんとがまくんを調べるなかで、「作者のアーノルド・ローベルは晩年ゲイだったと告白した」という記事も見つけました。

おおう。そうなんですか。
・・・言われてみれば作品からそういう匂いがしてこないこともないですけども。むしろ強めの芳香ですけれども。

けど、それがどうした。
大前提としてただの人間だもの。心は等しくあるのよ。

 

 

もし悲しい恋をしているのなら、その痛みや悩みを作品に昇華させなくちゃならない。」
と、手記に残した一文。

 

作品を編む中で、作者は自分の気持ちや思い出をなぞりながら、その中に救いを見出せるように・その記憶を少しでも救われるものに変えられるように、作品の中では、自身の理想や憧れを描いたのかもしれません。

もしかしたら誰よりも作り手自身が編むことを必要とした物語。
人間だもの。心は等しくあるもの。
もし自身のための物語だったとしても、作品がずっと世界中の人々に愛されているのは、共感を集めたからに他ならないでしょう。
普通の性嗜好の人々より、悲しく、報われない恋を重ねてきたからこそ、「ふたり仲の良いこと」への憧れを強め、ここまで人の心に刺さるテイストを生み出せたんじゃないでしょうか。

「切なさ」ばっかりですものね、われわれ。
切なさばっかりなぶん、自分の理想に焦がれる気持ちはきっと強め。

 

そしてみんな「寂しい」という感情をよく知っている。
「自分のそばにいてくれたらいいのに」と誰かや何かをずっと心のどこかでは求めている。

 

そんな誰かや何かに出会い、自分の元に留め置くことを夢見て、だいたいみんな今日も生きているのかもしれません。

 

 


 

 

こうも思います。

かえるくんのように自分から素直にメッセージを発信できたらいいのに。

 

…でも、もしかしたら、かえるくんも寂しかったのかもしれません。

がまくんの寂しさを分かったから、その寂しさを悲しく思って自分から手紙を出したのではないかしら。大切な友達のがまくんにそんな思いをしてほしくなかったから。
作者は、自身の投影としてがまくんに「誰にも顧みられない寂しさ」を、そんな「寂しさを抱きしめる優しさ」という役割をかえるくんに与えたのかも、などと思います。
かえるくんとがまくん、二人は作者の「寂しさ」という一つのものから生み出されたものではないのかしら。

 

 

作者や、この物語に共感してしまえる人々の求める「誰か」は、きっと誰でもいいわけじゃない。

 

「『寂しさを分かってくれる誰か』が、そばにいてくれたら良いのに。」

 

 

 

20年経って読み返すと、そんな寂しさをこのお話から感じてしまいます。

 

 

 

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