AVANCE

〜ビアン人生も悪くないですよ〜

好きが長続き=愛?

今週もお疲れ様です。夜のてっぺんごきげんよう。

さてさて、2018年が開幕しました。あけましておめでとうございました。
そして今週末は早速の連休ですね。

あいにくのお天気模様のようですが、みなさんは何をして過ごされるのでしょう。

 

私は、まだお餅を食べます。
まだぜんざい用の缶詰が残っているんですよね…。

お餅は好きなのでいつでも美味しい!おせちは飽きても、お餅は飽きません。不思議。(おせちに失礼)

 


 

 

新年明けて一回目の「暗ブログ」ですが、話題は、昨年末からじわりと語られ続けていたこちらです。

「『恋』や『愛』について」。

いま現在思いつくことを下書きしてみたら、私だけ6部作くらいになりそうなので、この「暗ブログ」にて語っていきます。
1月と2月はずっとそんな話題になるかと思います。
一つのテーマを与えられたら気の済むまで追究したい♡
それが暗ブログでございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

これまでスタッフで語られてきた愛や恋についてのブログは↓こちら↓です。この機会に一気読みもどうぞ♡

・山口さんが語る:
http://avance2017.com/post-16082
http://avance2017.com/post-16284
・9さんが語る:
http://avance2017.com/post-16203
・まーさんが語る:
http://avance2017.com/post-16358
・おでこさんが語る:
http://avance2017.com/post-16184

 

このブログにおける「恋とか愛とか」について。

今回は、私という者を語る上では欠かせない「長すぎる片思い」というところから考えてまいります。

 

 

長すぎる片思いしてきたにんげんです

(※これまでのブログでも度々語られてきた経緯ですので、前半の内容に重複があります。)

 

私は、小学校の時からつい最近まで、初恋の女の子に20年ほど「好き」の感情を引きずってきていました。

8歳9歳から28歳までの約20年間…さすがに長いですよね。
と言っても、20年の間、その子一筋だったり、ずっと「好き!」と思い続けていたわけではなく、途中、淡い恋心を他の方々に抱いたり、感情が伴わないながらに男性とお付き合いしてみたり、自分の事でいっぱいいっぱいで意識に上らなかった期間が長いです。

 

けども、心のどこかでは「初恋のあの子」の存在がいつもあって、いつも何かと比較するときの基準にしたり、そのイメージを追っていた気がします。

 

「初恋のあの子」に全く会う機会が無くなってしまってから13年経ったころ(高校以降進路が別れました)、フェイスブックであの子を発見してしまって、「あれ?まだ好きかも?」
と惹かれる気持ちが残っていることに気付きました。

「あの子の存在」をありありと突き付けられると、やはり気にならないではいられませんでした。

しかも、20年の間、記憶に上るのは途切れ途切れだったにしても、気持ちが醒めたり「好き」が弱まったりということはない模様。

多分、初恋のあの子に対しては、ずっと「好き」な気持ちがあったんですね。

 

 

 

 

さて、そこで考えます。
20年間好きであったけども、それって「愛」なのでしょうか。

 

うーん。
「愛」ではないと思います。私の場合は。

 

ただ「好き」という気持ちを保っていただけで、「あの子の力になろう!」「あの子のために!」といった働きかけは一切しなかったので。

 

むしろ、
「私を忘れていてほしい。私に関する思い出は、きっと不快な気持ちにさせるだろうから。」
と、私から進んで距離を置きまして、まったく接触しませんでした。
「あの子が幸せにでいられるなら、何でもいい。あの子と一緒に誰がいようと、あの子がどういう選択をしようと。でもどうかいつも幸せでいて。」
と祈るような気持ちはありましたが、そこに私が関わろうとは考えませんでした。

 

いわば、あの子の幸せをあの子自身と誰かに丸投げです。そして私がするのは祈るだけであとは放置です。
あちらがノンケさんだったにせよ、気持ちを告白せずに距離を置いたのは、「逃げ」です。きっと。

 

これは、「愛」なのでしょうか。

…確実に「恋」ではあるけれども。

なにしろ、一目見た瞬間に心奪われました。
そして、あの子と友達とお近づきになりたい!
友達としてお近づきになれたけど、さらに近づきたい!

って、ずっと思っては下手なアプローチをしていました。
そのアプローチへ無反応なあの子にモヤモヤしたり、ちょっかいかけてくるアホな男子からなるべく守ろうと過剰防衛したりしてました。
誰にも言えない気持ちをノートに書き散らしたり、胸にまとわりつく切なさで食欲がわかない日が結構あったり、ゲームのキャラクターにあの子を重ねたり、眠りにつく前にあの子の事を思い出しては溜息をついていました。

 

あれは、確実に「恋」でした。
「いやそれ恋じゃないから」と第三者に突っ込まれても、「あれが恋じゃないなら、何が恋だというんだろう」って言いきれるほどに恋でした。
この点に異論は差しはさませません。断固。

 

けど、「あれは『愛』だったのか」と問われると、違うんだと思います。

 

 

「好き」の気持ちはだれのため?

 

「好き」の気持ちは長く持っていたし、長年のうちに褪せなかったけれど、その「好き」という気持ちは…

 

「あの子を好き」という感情の甘美さに浸るため
「あんなに好きだった」と心の拠り所にするため

あの子の「イメージ」や「恋をしていた時の状態」を自分の中に保っていただけではないのか、と思えてしまうんです。

「愛」の定義やその状態のことをはっきりとは分かっていないので断言はできないですが、私の長年持っていた感情は「愛」ではない…。

なんだか、今はそんな気がします。

 

 

つまり、自分の中に「あの子が好き」な感情を置いておくことで、自分を守っていたのかもしれません。
「私は恋の感情を知っている」
「あの子を一目見た時のあの時の衝撃を知っている」
と思える記憶にすがることで、「生きることの豊かさを知っている」と思いたかったのかも。
まわりがどんどん異性と付き合ったり結婚したり、順調にことを運んでいるなかで。

 

もちろん、「あの子」以上にステキ!と思える人が現れなかったのも、「あの子のイメージ」が心に残った原因の一つです。
それにしたって、
「初恋のインパクトが強かった」
のであって、「あの子を好きな強さが誰よりも勝っている」ということではなかったのかもしれません。
初めての事って、何でもよく覚えているものですものね。

 

 

それに、私の中にあるイメージの「あの子」は、もはや実際のあの子とは違うかもしれないです。
長年、ろくろく話せないうち、会わないうち、あの子の事を「どえらいお人」と理想化していた気もしないでもありません。
(もし違うということが明らかになったら、私は「実際のあの子」には淡々とした感情を向け、相変わらず「イメージのあの子」を好きで居続けるかもしれません。
「実際のあの子」と「好き」な感情を一致させられるか分かりません。)

 

 

…これは、「愛」ではありませんよね。
やはり、自分に都合のいいだけの「好き」な感情です。
20年という長い期間にわたると、この「好き」は心の支えになってしまうので、「宗教的」ですらあるかもしれません。

自分の心の安定のために、好きな人を心に据える。心の支えきれない部分を支えるべく、好きな人の記憶で埋める。

 

それ自体は、全く悪いことではないはずです。
そうもしなければ乗り切れない場面はたくさんありますもの。

でも、これが「愛」かと問われれば、「また別の話です」と答えなきゃいけないですよね。

 

 

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

「愛」ってものははっきり分からないけど…
自分のためだけにやることは、(「自己愛」であっても、)好きな人に向けられる「愛」ではない。

 

「愛」ってば、もっとこう、「あの人のために!」と頑張るイメージのものです。
でも、それが結局あちらの迷惑だったら、その頑張りも独りよがり。
または、「あの人のために!」の裏にあるものが、「あの人のために頑張れば、あの人が応えてくれる。それがあるから頑張れる。」
だったら、結局目指す先は自分の利益。もしかして依存ですらあるかもしれない。

 

「愛」は、そういうことじゃない気がしてなりません。
「愛」って、「自分の事」は勘定に入れていないんじゃ?とさえ思てきます。

でもきっと、自分を損なうほどの自己犠牲はまた「愛」とは違うんでしょうしね。

 

 

ということは「愛」って…

 

 

 

次回に続きます。

 

ABOUT THE AUTHOR

siso
30/ ゴリラフェム / あばんせのイラストを担当

生活感溢れるゴリラ。
犬と無印良品とディズニーを愛する。
恋愛を志向しない。と言い訳する恋愛初心者。

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